公助の限界と途方に暮れる身体障害者

タイトルはテキトーにAIに作らせてみた。しらんけど。

こんなPostをみた。

調べてみたら田端氏もADHDらしいとの噂も…知らなかった。まぁ、どっちでもいい。しかし、自分はできているのだから、お前もやれってのはあまり感心しない。自分も過去に誰かに強いてしまっていたかもしれないが…

身体障害者になって9ヶ月経った。しかし、過去にできていたことができなくなっていることに対する苛立ちをどうしても乗り越えられない…まだ心のどこかで

自分は健常者だ。まだやれるはずだ。

とでも思っているようだ。

身体障害者手帳を貰えれば、世界がもっと自分にとって過ごしやすい世界になるんだと思っていたのかもしれない。実際にはそんなことはなくて、日々の生活でそれを意識することはまだほとんどない。家を出ること自体がほぼないので当たり前なのかもしれない。先日、タクシーに乗ったときに普通に会計しようとしたところ、パートナー氏から手帳を出すように促されたくらいだ。

身体障害者としてどう生きるのが正解なのかわからない。仕事でも生活でもなにかうまくできなかったりすると

仕方ない。できない身体なんだから

と言われる。物凄いフラストレーションが貯まる。しかし、何も言い返せない。言い返す良い言葉も見つからない。

反面、同居している家族は?というと身体障害者になる前のワシの働きに期待していて、何もかわらない。少しは手伝えよって時々発狂したりするが、いっても効かないのでパートナー氏とは違いうちに離婚する。貯蓄する期間を与えるから転居先をみつけて来年には引っ越すように伝えた。

自助公助とケアマネさんに言われる。何より自分でできないことは同居家族に助力してもらえない場合にのみ、公の助けをもとめられるということだ。同居家族に助力しない人がいると途端に公助は受けられなくなるから、家事の負担を減らそうにもヘルパーさんを呼ぶことができない。だったら出ていってもらったほうがいい。

子どもたちは成人して独り立ちするまで責任もって父親をやり通したい。それがおわったら、もういいかな…

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